2016年10月26日水曜日

幸子の再受講

真っ白なノートは、なんだかもったいなくて書きづらい。どこに何を書いたとしても、アンバランスだ。
無限に出てくる言い訳に、頭の中で少し陶酔したりして、幸子は日がな一日を過ごしている。
人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。
誰の言葉であったろうか。胸を張って、頑張っている、と言えることなんて何一つとして無い幸子であったが、案外退屈に苦しまされることもない。時間はちゃんと過ぎていく。気づけばもう十月である。少し暗くなったような街の中を、一人歩けば手も冷たい。
堕ちる。これには一種の奇妙な悦びがある。周りのみんなが気にしているのは「落ちる」か「受かる」かだろうが、幸子にはどちらも自分とは縁遠い出来事のように思えて仕方がなかった。ただダラダラと堕ちていく。この大きな部屋の中で、自分一人だけが取り残され、社会の潮流とでもいった恐ろしくて大きなものがどんどんと目に見えないところまで遠ざかり、そこにあるのは自分の体だけ。そんな無法者の放浪者が感じるような生の実感に、女のくせして「悪くないわね。」と、微笑し、独り合点している自分の陳腐な性質を、幸子は呪い、また呆れていた。


授業が止まったのは水曜日のことである。
毎度笑顔で挨拶はされるものの、半ば自分のことを諦めているであろう塾の先生からファイルをもらい、いつも通りの指定席で、いつも通りに授業を見ていた。画面を見ているのか、画面の奥を見通す千里眼の訓練をしているのか分からないような幸子の両目であったが、映像の中の声が途絶えたことには、すぐに気がついた。
おかしいな、と幸子には分かる。何しろ、もう何ヶ月もこの授業しか見ていないのだから。しかし、画面は確かに再生中である。池様の腕もぷらぷら揺れている。が、授業をしない。なんだこりゃ。幸子がぼーっとしているうちに、池様はカメラの方へ近寄ってくる。こっちを見ながら、腰に手を当てて、気怠そうに笑ったかと思うと、
「君、勉強大丈夫か?笑」と言った。

ん?今のはなんだ?
いつもと違う。とにかく違う。幸子は混乱していた。池様の授業が変わっちまった?本来なら、複合関係副詞の説明をした後だから、例としてベン・E・キングのスタンドバイミーの歌詞を読み上げて、豆知識披露のタイミングだ。こんな間の悪い授業をする池様ではない。無駄に近寄ったりもしないはず。幸子はここ数年なかったほどに、自分の心臓が早く打つのを感じた。


英語の池上は幸子の希望である。いや、そんなに大それたものでもない。塾にいる時のパートナー。何でもいい。一方的なんだから。とにかく授業が抜群に面白かった。声も聞きやすく、話し上手である。だから幸子はこれを見た。来る日も来る日も何回も何回も繰り返し見続けた。いつしか憧れの気持ちから「池様」と呼ぶようになり、幸子の日課は池様の話術研究となった。顔もイケメンなので「イケ様」でもいい。ダブルミーニングだ。そして何度も繰り返して見るうちに、愚かな幸子は、心中するとはこんな感じだろうか、と堕落の悦びに捕らえられ、中毒患者のように間の抜けた顔で、今も毎日受講している。そしてこのまま卒業まで一緒に堕ち続けていくはずであった。
しかし、池様は裏切った。


「見えてる?君だよ君。もう何回見てんだよこの単元。そろそろちゃんとしないとまずいんじゃないか?笑」
幸子はパニックである。
「どうした?まだ信じてないのか。全部見えてるんだよ。画面の向こうのショートカットに黒ぶちメガネのあなただよー。8月まではコンタクトだったよね、確か。」
怖くなった幸子は、急いでパソコンの主電源を長押しし、強制終了を試みる。
「なにやってんのー?もしかして消そうとしてる?おーい、」
画面は真っ暗になった。幸子は、静かに周りを見回すと、ファイルを掴んで立ち上がり、早足で自習室を出て行く。

「あれ、もう帰るの?」
「すいません、体調悪くて」
実際、幸子の顔は恐怖で真っ青になっていたので、引き止められることもなかった。
エレベーターは嫌だったので、階段で下まで降りた。