2016年11月7日月曜日

幸子の再受講 第二講





幸子は幻滅した。まさに幻が滅するとはこのことだろう。あの知的で、ユーモアに溢れ、滑舌の心地いい池様が、まさかあんなに口うるさい、頭の堅物な、しつこいひねくれ男だとは想像にもしなかった。なんなんだ、あの人を小馬鹿にした態度は。画面越しでなかったら、筆箱でも放り投げて、腹の底から、思い切り太い罵声を浴びせて、あのご立派な授業を死ぬほど妨害してやりたいところであったが、如何せん幸子の攻撃手段は、自分のノートに自分のペンで書いた刃先の鋭い言葉たちを、周りの生徒たちに気づかれないように、そっと画面に見せてやる事だけなので、溜まりに溜まった鬱憤も行き場を失い、いよいよ爆発してしまいそうな勢いである。



ある意味それは、映像授業の塾講師としては、至極当たり前の事なのであろうが、英語の池上は、いつでも、そしてどこの席にでも現れる。幸子は、あれからいろいろな席で英語の授業を見たが、どこへ行ってもダメだった。画面の前に座っているのが幸子だと分かると、池上は待ってましたとばかりにニヤニヤし出し、授業を完全に放棄して、幸子の説教時間に入る。授業をしていない時の池上は、ものすごくしゃべる。本当にうるさい。いちいち文字をノートに書いて、画面にコソコソ見せなければいけない幸子に対し、言いたい放題の池上は、ノンストップで流れるようにしゃべり続けた。わざわざ黒板に書いた英文を消して、『勉強しろ!!女生徒!!』と、大きくチョークで書いてくる事もあった。
『わざわざ黒板に書かないでも分かってます!!そっちこそ授業しろ!!』
幸子が書いている間も、大抵池上は、「おー、なんか書いてるぞー!」とか言って、ブツブツ騒ぎ立てた。ノートを見せてやると、「お!」と言って、喜びながら近寄ってくる。
「そうか、何度言っても分からないから、ヘッドホンぶっ壊れてるのかと思って、一応視覚にも訴えてみたんだけど。視力は死んではいないみたいね。」
『メガネしてるけど死んではいません。聴覚もすこぶる正常。not聞こえないbut聞く気ない。Are you understand?』
「Do you understand だろ、お馬鹿な受験生。字だけは綺麗なのに。文法間違ってると、書かれた字も、いくら綺麗だって可哀想だよ。残念。もったいないね。」
『授業しろ。あんたに見せる為に書かれる字が可哀想になってきた。私のかわいい字たちに触らないでスケベ』
「触れるもんなら、赤ペンで丁寧にお直ししてあげたいところなんだけどねぇ。残念。てかそこ何校?東京?神奈川?メガネちゃんは田舎っぽいけど、三年だよね?」
『メガネちゃんやめろ!田舎で悪かったな、校舎は教えてあげない、怖いから。三年。あんたが授業全然しないからどこも受からないかも、だからちゃんと授業しなさい』
「待って、今、うしろで男の子がこっち見てたよ。_____ハハハ嘘だよ、いちいちびくびくすんなって、大丈夫だから。何キョロキョロしてんだよ、平気だよ。そんなに怒るなって、メガネずれてんぞ。」
と、こんな調子である。元はと言えば、自分のだらけきった授業態度に原因がある為、変なところで真面目な幸子は、親にも友達にも相談できなかった。ところが、ある日、塾の清水とかいう先生に、一生懸命勇気を振り絞り、かしこまって話してみると、この先生が、意外な事に、笑いもせず、妙に真剣な顔で聞いてくれるので、ひょっとしたらよくある事なのかもしれないと思い、少し安心していた幸子であったが、この男、いざ口を開けば、
「いいね、ブログのネタにするわ。」と、全く信じていない様子であった。



なんだかんだで、気づけばもう11月である。朝は寒くて、余計に起きられない。わざわざコートを羽織って学校へ行くが、学校行事も何も無い。ただ、授業を受けて、授業が終わり、放課後になる。塾は行きたくない。けれど、他に行くところも無いので、寒い風の中をしょうがないからトボトボ歩いていく。
「おい、もう11月だぞ!A票書いたの?あれだよ、受験予定カレンダーだよ、もらったろ?」
『うるさい。英語の授業をしましょう。教師なら』
「てかメガネちゃんどこ受けんの?てかそもそもどこか受けんの?私立?文系?ぽいけど英語以外もちゃんとやれよ。」
『どこ受けたらいいのか分からん』
「行きたいとこないの?俺慶応だけど、慶応は?」
『え、なに自慢?自慢ですか?こわっ、慶応とか笑』
「そんなに俺のこと好きなら慶応目指せよ!俺と一緒だぞ!」
池上は自惚れている。幸子は本当に幻滅していた。
『慶応以外ならどこでもいい』
「素直じゃないなぁ、女子高生は。」

なんかこのまま、受験終わりそう。最近壁に貼付けられている、センター試験までの日数の紙を見つめながら、幸子はそんなことを考えていた。