2016年11月5日土曜日

観心寺如意輪観音像




おかしな夢ばかり見るのです。
透明な水筒、中身が見え、その全長の半分くらいのところで、茶色い水面が揺れており、おそらくウーロン茶でしょうか、その茶色の上にピンクの中蓋が浮いています。外蓋もピンクであり、飲み口は開いていて、その水筒が倒れれば、もちろん中身のお茶はこぼれてしまうのですが、あの中蓋は、飲み口のところで引っかかり、パカパカとしているだけで、外に出てこないのです。そんな中蓋なのです。ごめんなさい、水筒をもう一度、倒れる前のもとの状態に戻しましょう。透明な水筒、揺れる茶色のお茶の上に、ピンクの中蓋はぷかぷかと浮いています。そして、よくよく目を凝らしてみると、その浮いている中蓋のふち、ゴムパッキンの溝のような、なんだか茶色く濁った汚い場所に人がいるのです。これが私なのです。何度見ても私に違いありません。下着姿の醜い私が、中蓋の上で忙しくバランスを取りながら、開いた飲み口の方を見上げ、何かを必死に懇願しています。飲み口の外を見ると、あの仏様がにょろりとお顔をお出しになっていて、私をしっかりと見つめながら、しきりにうなずいているのです。私は、決してそこを出られません。水筒の中でぷかぷか浮いたまま、何も出来ず、口も聞けず、ただ上を見上げて祈るのです。あのお方はそれをじっと見ています。ただひたすらに見ているだけです。私は、決して、絶対にそこを出ることは出来ないのです。






観心寺如意輪観音像。かんしんじにょいりんかんのんぞう。カンシンジニョイリンカンノンゾウ。かんしんじにょいりん。にょいりん。にょいりんがいいですね。如意輪。にょいりん。にょい。にょいもいいですよね。如意。にょい。
なんでしょうか、この感覚は。初めてあのお方を拝見したのは、高校の日本史の授業の時でした。一目見た時から、私はもう完全に魅了されてしまっていたのでしょうが、若かったためか、その自覚は無く、ただ「不思議だなぁ。」ぐらいに、考えていたのでした。
ですが、受験も終わり、大学生活に慣れ始めた頃、私は確か、大学の友人とラーメンをすすっていた時間だと記憶しておりますが、その友人が使う割り箸、そして空になった割り箸の入れ物を見ているうちに、ふと、あの観音像の姿が脳裏に浮かび上がってきてしまい、それからは、冷たい液体が頭の中に詰め込まれたような、奇妙に心地のいい感覚が体に流れ、多幸感と言いましょうか、完全なる満足感に体全身が震えをあげだすと、自分の前に運ばれたラーメンの中身もなんだか気持ち悪い物体にしか見えず、私はそのラーメンに一口も触れずに、そのお店を飛び出し、何も考えることもできず、まっすぐに自宅へ帰ってきたのです。合格以来、触っていなかったので、まだ残っているか、かなり心配していたのですが、日本史の資料集はちゃんとそこに置いてあり、私は急いで、弘仁・貞観文化のページを開き、あの仏様の姿に見入りました。
それは全くご立派でした。なんでしょうか、あのただずまいは。「余裕」とは、あのお方にこそふさわしい言葉でありましょう。完全なる余裕が、ズンと、ズシンとそこにあるのです。いえ、そこには何も無いのです。何もありません。そうなんです。「ある」なんてことは、全く愚かで汚い事で、そこには何も無い、もしくは、「ある」「ない」なんていう概念に縛られない、清廉で無垢な風がそこをただ通り過ぎる、いえ、言葉で説明すべきではないのです。汚い。言葉は汚いです。仏。きたない。にんべんをつけた馬鹿者は誰なんでしょう。名前などつけられるべきではなく、気安く呼ぶ事も本来間違っています。あのお方はあのお方。風が吹くと耳たぶが揺れるでしょう。それがあのお方であり、また、ただの風でもあるのです。にょいりんかんのん。にょいりんかんにょん。にょういうぃりんくわんにょうん。くわんにょうん。いいですよね。いいです。にょいがやっぱりいいですよね。



怒濤の大阪編へ続く