2016年8月5日金曜日

煙突

 暑かった。温暖化だか異常気象だか知らないが、とにかく暑かったので平生から少しおかしな私の頭が殊更おかしくなっていたのかもしれない。
 大学試験を控えたその夏休暇、私は毎日教室にいた。当時、私の通っていた高等学校は冷房設備がなく、まったく快適とはいい難かった。しかし、私はわけもわからず毎日通い、縄文時代の遺跡の場所やら江戸時代の流行作家やら、何の足しにもならぬようなことを必死で覚えた。
 教室にはKという女がいた。私はいつも、人にうしろをとられたくないという卑しい気持ちから一番後ろの席に座していたため、一番前に座り粛々と本をめくるKの姿はいやでも目に入った。Kは地味な女だった。はしゃいだり、活発にしている彼女を私は見たことがない。とは言っても私自身、授業時に教室にいることは滅多にないような乱暴者であったため、私が見たことがないだけで、あるいは教室の人気者だったのかもしれない。私は参っていた。勉強する理由がまったく分からなくなっていた。もともとわからないままに勉強し始めたのだから、なんとなく続くであろうと呑気に考えていたが、やはり男は堅物な生き物で、私は納得する理由が見つかるまで断固思案にふけるというなんとも間抜けな状態でその教室をやり過ごしていたのだ。私はよくKを見た。あくびをしながら、背伸びをしながら、Kを見た。ある日、私が窓の外を眺めるふりをして、窓にうつる私になにかおかしな点はないかと粗探しをしていたとき、Kが近づいて来たのを感じ、私は殊更遠くを見るよう心がけた。教室にはいつも私とKふたりきりであったのであるが、気取った私と地味で真面目なKが会話することはこれまでいっさいなかったのである。Kは、何をしている、と尋ねてきたので、私は驚きのあまり、勉強だ、とあまりに退屈な返答をし、はるか遠くをにらみつける行にいそしんだ。そうか、と言いKは一番前の座席に戻り勉強を始めた。私は遠くに見えるごみ焼却場の煙突を眺めながら、居心地の悪さに襲われた。日も暮れかけたころようやく私は立ち上がり、なぜ勉強をする、とKに問うた。Kはなぜだか分からないが微笑み
「大学に行くためかしら」と言ったので、
「なぜ大学にいきたいのだ」とさらに問うた。
「いい会社に行くためよ」
「なぜいい会社に行きたいのだ」
「なぜって、それはいい会社はお給料もいいのよ」
「では、お前はお金のために勉強しているのか」
「言い方が失礼ね、幸福になりたいからよ」
私はそこでハッとして気がついたのである。
この女めっちゃ声かわいいな、と。
それ以来、私は再度わけも分からず勉強する日々に舞い戻った。
わけはまったくわからないのだ。まったく得体の知れない不思議な力が私を駆り立て、ただひたすらに勉強をさせ、大学試験までその力は衰えることを知らなかった。
もちろん、Kとはあれから口を利かない。