2018年1月3日水曜日

お正月にはパスタを



あけましておめでとう。
正月は、とってもいいですね。僕は大晦日31日から、とにかく一歩も外へは出ずに、空気の悪いぬくぬくした部屋の中で、のんびりみかんを食べて過ごしていました。そうして今朝、コート着こんでマフラー巻いて、ようし、今年もいっちょやったるか、と意気揚々家を出ましたが、やっぱり冬はさむいですね。全身が突き刺されるように痛いです。一月は一年で一番寒い月なのだと実感して、昨日まで、正月はこれだからやめられねぇや、とじいさんにでもなったつもりで部屋の窓から空見上げてニヤニヤしていた自分が馬鹿らしく思えてきました。なんだかんだと理由をつけたって、寒いってのは最悪です。ひとつもいいところがありません。正月遊びがたくさんある理由が分かった気がします。凧揚げは、あれは阿呆です。こんな寒いのにわざわざ外出て大口広げて、わ、たけぇや、なんて当たり前のこと叫んでるなんて、奇妙なことです。けどみんなそろそろそれに気づき始めたのか、最近凧揚げしてるタコ野郎はさっぱり見かけませんね。よかったよかった。そんなことよりカルタしましょう。歌留多かるた。百人一首。広瀬すずもやってます。歌留多強くなったら広瀬すずと付き合えるかもしれません。なので、正月は部屋で歌留多。これに決まった。
さて、歌留多といったら僕を忘れてもらっては困ります。僕は歌留多王です。歌留多キングと呼んでください。僕の歌留多を取るスピード、そんじょそこらのエセ歌留多野郎には負けません。もう、あれです。もう、速いです。手が、ぴゅんです。すぴゅん。正月ののんびりした茶の間に喝をいれんばかりの、っぴゅんです。暖房の重たいぬるい空気を切り裂く氷の手刀、アイスハンドナイフ、っすぴゅん、やはり歌留多にかぎります。ところで歌留多には、競技歌留多とエンジョイ歌留多と大きく2つ、区分があります。競技歌留多に関しては、先ほどのアイスナイフ炸裂で負けなしの僕、アイスキング僕、ということはわかっていただけたかと思いますが、歌留多というのはなかなか深い遊びでして、ただ歌を覚えて取ればいいってだけの遊びにとどまらないところ、ここが高貴で風流なあの大人たちの、とりわけ愛するところの所以であるかと思います。つまるところ、エンジョイ歌留多というものは、歌を理解するということです。本当に風流で上品な紳士淑女は、ここを何よりも楽しみながら、歌留多遊びをするものです。なんと優雅なお遊びでしょう。歌を作った先人たちの表現に触れ、学び、覚え、手刀で切り裂く。そしてそこからまた、新しい歌をクリエイトしていく。これが歌留多です。深いんです。広瀬すずもそりゃハマります。歴史を超えるんです。手刀で空を切り裂いている時、歴史を超え、また歴史を創造しているのです。そう考えると、あの川沿いの土手で、馬鹿みたいにお空見上げて凧揚げなんてしてる人たちは、いったい何者なんでしょう。なんとも不思議でなりません。

僕(歌留多キング)は小学校五年生の頃、自分が天才であることを知りました。歌留多キングとして生涯、みなさんのために尽力していくことのみが、僕の宿命であるということを、わずか10歳ながらに知ってしまいました。無論、当時のアイスハンドナイフの僕には、この広い戸塚区の中でも敵がいませんでしたが、ところがその年、担任の先生が国語の教育にひどく熱心な方にかわり、僕(歌留多キング)は初めて短歌というものを勉強しました。いえ、もちろん、歌留多キングですから、そのリズムはもう心臓の鼓動と相鳴り合うが如く、僕の骨肉に根強く染み付いていたわけですが、その短歌という名前と、季語やら枕詞やらの新しい存在、それらを概念的なものとして、初めて知ることになったということです。そしてその担任の先生は、なんと僕らに創作をするよう言いつけました。僕はあの時のことを一生覚えているつもりです。背骨にズドーンと、雷が刺さったような衝撃でした。なんだか分厚い色紙を机の上に置かれ、ここへ五七五七七で自由に書け、と。自由が難しかったら、この前の運動会をテーマにしてもかまわない、と。僕はそろそろ照れ屋な性分が色濃く出始めていた頃でしたので、運動会について、

走る顔 額流れるその汗が 白の優勝 導く光

なる、なんとも甘っちょろい歌を作ったことを覚えています。友達にはセンスがあると褒められたような気も致しますが、先生には季語が無いと叱られました。恥ずかしいというよりかは、とにかくもう茫然自失しました。と同時に溢れんばかりの喜びが頭の中をムジャムジャと満たしていくのを感じました。これは、道だぞ、と。神様が僕に言っていることが、はっきりわかりました。短歌をつくって、戸塚区のみなさんに貢献することだけがおまえの生きる道なのだと、神様が僕に言っていました。それは、先の見えない遥かな道でしたが、僕(歌留多キング)は進もうと思いました。というか、それしかないのです。勉強して、勉強して、勉強して、勉強する。それしかありません。僕は野球を辞めて、ハリーポッターも途中で捨てました。季語を勉強して、枕草子を毎日読みました。方丈記、徒然草、吾妻鏡、双眼鏡、三角縁神獣鏡、たくさん読みました。古の先人たちの御心になんとかソフトタッチしようと、月を見ることも増えました。学校では七五調でしゃべりました。バスケットボールのパスをするときに、いちいち、

動く君 眼前敵が いないのなら 受け取れボール 我が望みたくす

なんていうくどい歌を詠んでからボールをそいつに投げなくてはならなかったのが非常に面倒くさかったことを覚えています。けれども考えれば考えるほど、この短歌というものは深いものです。季語や七五調、そうした決められたルールの中で、最大限自分を表現していく。これが、なんと面白いことか。自由な発想を、制限された枠組みに作り直して、そしてまた自由に飛んでいく。なんだか人生とも共通する部分が多くあるのではないでしょうか。縛られた自由の中、最大限個性というものを発揮し、社会に貢献していく。僕はどんどんこの短歌という深い深い闇の中へ潜り込んでいきました。


努力が実ったか、6年生の秋、僕の下手くそな短歌が、なんだかわからぬコンクールにノミネートされたことを、あの担任の先生から聞きました。よくわからないまま父親に引きずられて、会場に到着すると、

いえ、嘘です。嘘をつきました。本当は6年の夏からコンクールに出れるのではないかと確信していました。そうして担任の先生から実際に聞かされた時も、え、どの歌ですか?とすっとぼけましまが、全然知っていました。あの夏の夜の気だるさと涼しさを歌った僕のあの歌が、必ずや戸塚区のコンクールで優勝するということを、心底信じていました。父親を無理やり引きずっていったのは僕の方です。僕は、誇りに飢えていた!朝礼台で表彰されてみたかった!みんなの前で!親友のヒロは、バスケの日本代表で、悪友のヘレンは、なんだかわからんボランティアで、みんな朝礼台であのドラえもん校長に表彰された!僕だけだ!なぜ少年野球で戸塚区を制しても表彰されないのだ!くだらん!ボールを決められた場所に投げるだけのつまらんスポーツなんぞ、とうにやめてやった!歌留多だ!歌留多!歌留多で一番になるんじゃ!僕は本気でした。僕の歌留多がきっといつの日か、昼休みに教室でひとり音楽を聴いて過ごしているあの女の子を、励ます。それだけが僕の道だと思い信じていました。そうして、確信していました。僕は、必ず、コンクールに勝つと。僕よりエンジョイ歌留多を深く勉強しているやつはいません。負けるはずがありません。けれど、人生そううまくはいきません。結果は、ダメでした。佳作でした。表彰もされないでしょう。父親に励まされて、僕(歌留多キング77)は泣きました。グランプリの六年生の歌は、すごかったです。


冬は、さむい。
(字余り)


僕はルールとかそういうのが、とうとう馬鹿らしくなりました。
中学で、少しグレました。
正月は凧とか、歌留多とか、くだらないです。好きなこと好きなときに適当にやりながら生きていきます。そういう人の言葉のほうが、よっぽど心に刺さります。