2016年9月25日日曜日

マナビス創世記 弐

「まぁ、そんなところにお座りになっては、お召し物が汚れてしまいますわ。あら、もうそんな茶色に」
「いいんだ、服なんぞ少し汚れている方がむしろハイカラでロオマンチックというものだろう。ほら、君も是非座りたまえ」
「はぁ、しかし、」
「海が見えるんだ、多少の汚れなどかまわんだろう」
「立っていた方が海はよく見えますけれど」龍、ようやく腰を下ろすが、土にめり込む膝が気になり、なんとも落ち着かぬ様子である。
「おい、海はどこまで続いていると思う?」
「どこまでも続いてとうとう背中に至るのだと伺いましたよ」
「そうだ、海はどこまでも続いてとうとう背中に至るのだ、おそろしいなぁ!ハハ!」全く快活な笑顔である。
「虎右衛門様」
「ぬ、どうした?」
「先程おっしゃられたハイカラとは何のことでしょう?あとロオマンチックでしたか?」
「成程難しいことを聞きやがる、ヘヘ!」虎右衛門、腕を組み足を組み、腕を解き足を解き、眼前の大海を眩しそうに見つめながら、始末の悪そうに笑っている。
「また私には難しいとおっしゃるのですか?」
「いやいや決してそんなことではない。考えてみりゃ簡単だ。ハイカラとは僕のこと、ロオマンチックとは君のことだ」言いながら首をまわしてまわしてぶんまわしまくり、「もしくは海だろう」と。成程海は偉大である。
神奈川宿の外れの外れ、とある酒屋より一里程、神奈川湊を南へ下り、弓手に静かな海を捉え、山をかき分け坂を越え、坂を坂を坂を越え、丘を登った草っ原、外国かぶれの伊達男、虎右衛門様のお言葉を借りれば、ハイカラでロオマンチックなデイトスポットとでも呼んだらよいか、後の人此処をして、港の見えるおかもんぺとか言ったそうな。季節は春、天気は晴れ、呑気な雲の下、花を摘み、虫を追い、書物を枕に、呼吸を数える二人であったが、いつもは静かに昼寝の海が、なんだかわさわさ慌てだした。
「ぬ、潮が高いなぁ、もうそろそろ日暮れかな」
「あら、せっかく着物を汚したのにもったいない」
「よし、江戸に向かって屁をこいたら引き返そう、雨も降りそうだ」
「またそんなこと、バチがあたりますよ」
ぐんと起き上がった虎右衛門、ちょっくら様子を確かめようと、近づいてみると驚嘆した。黒い大きい船である。大きいどころじゃなく大きい。いつも神奈川湊で見ている五十倍はあろうか。あんなものが浮くはずがない。いや、浮くか。虎右衛門、浮力についての拙い計算をしている間に、船は近づき、錨を下ろし、丘に向かってぽんぽんぽん、ぽんぽんぽん、大きい熊のようなものが、こちらへ跳ねて飛んでくる。ぽんぽんぽん。見たこともない服である。髪は犬のように伸ばしている。熊、丘の上で一人海を眺める男を見つけ、仲間とともに丘を歩き出す。一歩が二歩であった。龍、ようやく事態に気づき、虎右衛門に駆け寄り、
「あれが異国人ですか?貴方様を見ておりますが、もしやお知り合いですか?」
「いや、違う。下がっていなさい」
「すごいですわ、すごいですわ」
龍、意気揚々として下がり、これを見つめる。海はどこまでも続きいよいよ背中に至る。熊、別の男を引き連れ、虎右衛門の眼前についに立つ。身構える虎右衛門であったが、熊、別の男が持ってきた狸みたいな形の木の板に、腰をかけた。どうやら椅子である。腰掛けたと思ったが、また立ち上がり、熊、とうとう口を開き、お供の男も口を開いて何か話している様子である。さっと視線をずらすと、なんと我らが虎右衛門も口を広げて話している。何分経ったであろうか。我らが虎右衛門、再び腰掛けた熊と男に身構えながら、そろりそろりとこちらへ向かい、さっきまで枕にしていた書を拾い上げ、さっさと叩き、熊のもとへと歩いていき、また何か話し始めたと思いきや、今度は外国の遊戯か何かであろうか、三人の男順々に立ち上がったり腰掛けたり、尻で順番に椅子を舐め、今や熊は土に座り、連れの男は椅子の上に直立する始末、いつの間にやら先程の書、熊へ渡り、熊、連れの男、虎右衛門、順々に手を握り合い、熊、いよいよ丘を下りる。ぽんぽんぽん、ぽんぽんぽん。虎右衛門、丘の上から一切動かず、ただ船上に戻った熊を見つめ、手を上げるでもなく、声をかけるでもなく、一心に立ち尽くす。船、去り、日、暮れ、虎右衛門、ようやく金縛りが解け、酒屋の娘の方を振り返る。
坂を下り、坂を上るハイカラ男は、あの熊の椅子を頭上に掲げ、興奮冷めやらぬのか、鼻息荒く、足下ふらつき、今にも倒れそうではあったが、頭は冴えていると見え、口ぶりはしっかりとしたものであった。
「あの方はなんだったのですか?」
「彼はアイムペリという名で、教師をしているらしい、外国でな」
「いったい何の話をしていたのですか?」
「椅子をあげるから殺さないでほしい、友達になってほしい、としきりに頼んできた。こちらもただで貰うわけにはいかないと、代わりに書物をあげたら、これまたとても喜んで、君に感謝、君に感謝と何度も手を握ってきた」
「まぁ、素敵。これでもうお召し物が汚れませんね」
「うむ、なんともハイカラな男であった」
ペリー提督率いる黒船来航より、遡ること十四年、天保十年のことである。