2016年9月22日木曜日

マナビス創世記 壱

今から二百年程前の話、龍がまだ天空を泳いでいた時代、江戸より離れること幾数里、武蔵野国保土ヶ谷宿の町外れ、賑わいのある町人通りに、貸金の大看板ぶら下げた、それは立派なお屋敷に、清水学右衛門という男あり。吝嗇で有名な学右衛門だが、やはり親馬鹿はやめられず、その一人息子虎右衛門、ケチな親父の築きあげた、富の恩恵を一身に浴び、あらゆる書物を与えられ、諸外国家の様々の知識を、幼いころより叩き込まれる。息子虎右衛門十五に至り、親の期待に応えてか、才覚いよいよ頭角をあらわし、その非凡な頭脳を認められ、なんと江戸城へ奉公する次第となるが、城内の窮屈な生活に耐えかねてか、わずか二年で城を飛び出し、保土ヶ谷宿の町外れ、立派なお屋敷に戻ってきてしまう。これには激怒の学右衛門、なんとか息子を説得し、城へ戻そうと苦心するが、一向聞かぬ虎右衛門、怒る親父を尻目に見、母に無心した金を懐に携え、いよいよ屋敷を飛び出す始末。齢十八の虎右衛門、何をするやら見当つかず、保土ヶ谷宿より隣りの宿場、神奈川宿の外れに至り、手にした金を叩き起こし、オンボロ屋敷を買い取るも、やはり暮らしの知恵もなく、玄関先に立ち尽くす、やるせもない日々の果てに、向かいの酒屋の看板娘、龍という女に恋をした。とはいえ金も職もない虎右衛門、叩き込まれた学問知識も、無学の酒屋にしてみては、何のことやら皆目分からず、それでもひたすら通い詰め、酒狂いの坊っちゃまと、悪い噂も町に立つ。
「おい、デイトに付き合ってくれ」
「はて、デイトとはなんでしょう?」
「デイトとは散歩のことだ、外国では当たり前のことなのだ」
「はぁ、しかしお散歩はお一人でなさるのがよろしいかと」
「ええい、デイトは語り合うことが重要なのだ、散歩はその口実に過ぎぬ!」
「でしたらわざわざお散歩に行かずとも、ここでいつも私たちは語り合っているではないですか?」
「酒屋ではどうも雰囲気が出んのだ、それに後ろで君の親父が酒を売ってては、弾む話も弾まない、とにかくデイトは遠くへ行けば行くほどいいものなのだ」
「なるほどそれなら承知しました。父上様、私デイトに行って参りますわ」
「馬鹿、そんな大声で親父に言わなくとも、するりと歩き出せば良いのだ。親父は君が豆腐か何か買いにいくのかと勘違いしているではないか」
「ではするりと参りましょう」
「こら、男が先に歩くものだ」
こうして虎右衛門、向かいの家から自分の家まで往来の幅わずか六めーとるを、娘に渡って来させるために、歩いた距離は幾千里、その日暮らしで稼いだ金は、すべて草履の新調に消え、娘と武蔵をむさぼり歩く。