2017年12月3日日曜日

質問するということ


質問には、良いものとそうでないものの2つがある。


前者を定義するのは難しいが、後者であればすぐにわかる。

その質問は大概、分からなくなった直後に来ることである。


質問の本質とは、本来そう言うところにはない。質問というのは、わからないことをわかるようにするのではなく、考えて分からないことや、分かったつもりになっていること、つまり知識だけのものを知恵のように使えるようにするきっかけのものである。使えるようになるには本人次第だし、僕はそのきっかけを与えているにすぎない。


これは余談だが、生徒からこの語句が分かりません、と聞かれたとき、大体google先生に聞けば解決するものも多い。最近のネットは僕なんかよりよっぽど頭がいいし、スマホにヘイ、Siri””OK,Google”のどちらかを言えばたいてい答えてくれる。


まあこの話はさておき、ではどうすれば質問から知恵や理解を得られるのか。それは分からないと感じたものをもう一度自分の中でいったん考えを試みたうえで質問することである。その考えが深ければ深いほど、質問で得た答えに多分な有意を起こさせるし、次を考える意欲にもなる。逆にそれほど考えていないものに関しては聞いてもすぐ忘れてしまい、身になっていないことのほうが多い。


この、質問をする前に自分で考えるというのが重要であるのだが、その中でも特に2つの考え方がある。1つは何度も解いたことがある問題や、その類題などを考えるとき、そしてもう1つは、初めて見る問題や概念を考えるときである。


最初のほうに関しては、時間を1日ほど空けて考えたほうがよい。疲れて疲労しきった頭で考えてもわからないことは、すっきりとした頭に任せるのが一番良いし、大概のことは計算ミスや文章の読み違いなど、その日疲れているせいで起こるミスが多い。次の日になると、何でここが分からなかったのだろうかと、不思議に思うこともある。質問せずとも自分で後から考えたらわかるものなどは、自分で考えたほうが何倍も身に付きやすい。


そして後者に関しては、それこそ何日も日を置いて考えたり、またその内容を理解するためにかなりの時間を要してもよい。わからないなりに自分の中で解釈をつけ、その1つ1つを懸命に消化しようとすることこそ、その人にとっての知的財産になる。それで自分の解釈と合わなくなったり、方向がずれていたらまた軌道修正すればいい。そこに質問をあてがうことこそ質問の意義であり、うまく自分を導く方法なのである。