2016年12月30日金曜日

りんご→






-ピーコ君に与える-


清水優






 私は、ゴリラについては自信がある。いつの日か、かならず肩を並べて分かり合える日が来るであろうという自信である。私は、きっと仲間として受け入れられるに違いない。自信があるのである。よくぞ今日まで彼らに話しかけられもせず、呑気に人として暮らしていたものだと不思議な気さえしているのである。諸君、ゴリラは人間である。太古の昔には、人と一緒に焚き火を囲んで、酒を飲んでいたそうではないか。さもありなんと私はひとり淋しく首肯しているのだ。あのゴリラの、器用な指先を見るがよい。ただものではない。いまは、あのように柵の中で睨みを利かせ、文句があるなら暴れ回るぞ、とでも言い出しそうな荒々しいたたずまいをしているが、もともと彼らは人間である。いつなんどき、知性に目覚め、そろそろ外に出してはもらえませんかね、と丁寧な人間の言葉を用いて飼育員に嘆願し出すか、わかったものではない。ゴリラはかならず柵の中に閉じ込めておくべきではない。いますぐ、渋谷や原宿、桜木町にでも彼らを放してみるべきだ。きっと、彼らは順応する。害は、決してない。ためしに、桜木町のゴリラを見てみよう。桜木町駅からランドマークタワーに繋がるあのエスカレーターの上から、まず、ゴリラは登場する。見たまえ、ちゃんと左に寄っているのだ。彼らは人間のじじばばなんぞよりも、よっぽど常識をわきまえているではないか。手すりにもしっかりと手を添えている。そしてゴリラは、そのまま、コレットマーレへと入って行く。当然、服を買うのであろう。『X-LARGE』とかいう、ゴリラがプリントされてあるブランドがあったが、全く見向きもしないようである。どちらかというと、細身のキレイ目ファッションに関心を示している。流行に敏感なゴリラなのであろう。それにしても、あの店員の態度は如何なものだろう。客が服を選んでいるというのに、その純真無垢な姿を携帯のカメラに収め、『ごりら、なう。』などという、糞ほどにも面白くない、つぶやきという名の雄叫びを世に見せ示し、その傲慢な態度とは裏腹に画面の外の世界においては、大切なお客様であるはずのゴリラを異様なまでに警戒し、お金を受け取る際のあの汚物にでも触れるような仕草たるや、なんというあさましさ。人間の恥である。信頼しなければならぬ。裏切られるから、暴れるのであって、信頼していれば、彼らは決して暴れない。もともと真面目で誠実な種族なのだ。
 今年の晩秋、私の友人のゴリラが、ついに人間の裏切りの被害を受けた。いたましい犠牲者である。友人の話によると、友人は何もせずいつもの木の上で寝転がっていたそうだ。すると、先刻からぎゃあぎゃあと騒いでいた人間の小僧が、なんと柵を飛び越えて、こちらへ落っこちてきたそうである。友人は、心配で助けに行こうかと思ったのだが、何か勘違いをされても困るので、やはりそのまま木の上で、無関心を装い、平然と寝転がっていたそうだ。が、その時、友人に注がれる柵の外の人間たちの目の色が冷たく変わっていたという。そして、わざとらしくあくびをした、とたん、銃声が響き、友人は針のようなものに刺されたという。一瞬のことである。友人は、体がしびれ、呆然自失したという。ややあって、くやし涙が沸いて出た。さもありなん、と私は、やはり淋しく首肯している。そうなってしまったら、ほんとうに、どうしようも、ないではないか。友人は、その薬の効果の為、外に出れず、それから二十一日間、狭いコンクリートの部屋で動くことすらできなかったのである。三週間である。動けるようになってからも、しばらくは手足のしびれに悩まされ、一生直らないこともあるそうだ。聞けば、銃を撃ったのは、いつもご飯をくれていた飼育員であった。それを知った友人は、何もできす、じっと堪えて、おのれの不運に溜息ついているだけなのである。しかも、柵の安全性がどうだこうだと言われ、工事するやらしないやら、結局、ようやく体が治ったら、今度は別の動物園へ引っ越すことに決まったそうだ。とにかくこれは、ひどい災難である。大災難である。ご飯をもらうときの、友人の憂慮、不安は、どんなだったろう。友人は苦労ゴリラで、ちゃんとできたゴリラであるから、醜く取り乱すこともなく、三七、二十一日治療を続け、いまは元気に立ち働いているが、もしこれが私だったら、その小僧、生かしておかないだろう。我々人間は、ゴリラの三倍も四倍も復讐心の強い種族なのであるから、また、そうなるとゴリラの五倍も六倍も残忍性を発揮してしまう種族なのであるから、たちどころにその小僧の頭蓋骨を、めちゃめちゃに粉砕し、眼玉をくり抜き、ぐしゃぐしゃに噛んで、べっと吐き捨て、それでも足りずに近所近辺の小僧ことごとく毒殺してしまうであろう。こちらが何もせぬのに、突然バンと撃って攻撃するなど、なんという無礼、狂暴の仕草であろう。いかに人畜生といえども許しがたい。糞餓鬼ふびんのゆえをもって、人間はこれを甘やかしているからいけないのだ。容赦なく酷刑に処すべきである。晩秋、友人の遭難を聞いて、私の人間及びその小僧共に対する日ごろの憎悪は、その極点に達した。青い焔が燃え上がるほどの、思いつめたる憎悪である。
 来年の正月、私は、上野動物園へお見舞いにあがるつもりである。漫画雑誌でも差し入れしようかと考えている。